読書

投稿頻度少なめで、前回からだいぶ間空いちゃったけど今日も長々と書いていきます。

 

今日は読書について。

漢字を見てわかる通り読書は書物を読むってこと。

「読書の秋」っていうのもあって、最近は暇な時間に読書してます。

 

ちょっと興味本位で調べてみたことですが、江戸時代から明治前期までの読書スタイルは、文章を声に出して読む音読が一般的だったそうで、家族やグループといった集団で読むのが特徴的だったそう。

音読が中心だった日本人の読書という行為を「黙読」に変化させたのは明治以降らしいです。

 

ここまでが余談。

 

 

 

 

読書、好きです。

というのも、読書って効率的に情報収集するのに最もな方法だと思うんです。

 

今はネットの時代だから、調べたらすぐに出てくるけど、知識が不十分でない人でも書き込めちゃう。

でもネットとは違って、本は沢山の人の目を通した上で出版されているから、必ずしも間違ったことが書かれているわけがないとは言えないけど、ある程度は信頼できる情報源になるのではないかと思います。

 

 

他にも読書は、語彙力向上にも効果的。

これを実感したのは中学3年生の時。

本当に中学時代ずっと国語が苦手で、与えられた問題文を読むというよりも、先に問いを読んでからその問いの答えを問題文から探し出すといった感じで、テストや模試などを受けていました。

「このような問いはきっとこんな答えだろう」って自分自身で勝手にパターン化して解いていたんだなって今になって思います。

これを繰り返してれば、それもそのはずで国語への苦手意識が高まるばかりで。

 

中学3年生で受験を意識し始め、このままじゃダメだと思って、まず語彙力を高めようと思ったんです。

塾への移動の時間は読書して、本の中でわからなかったり、疑問に思った言葉は付箋して後から意味を調べてノートに書き出す。

 

語彙ノートが10冊ぐらいになった頃には、国語が本当にびっくりするほど得意になってて好きになってました。

 

読書ってほんとにメリットしかない。

 

 

ここまでは随筆の話ばかりだったけど、もちろん小説からも学べることはすっごく多くて。

 

その1つとして、生き方が学べるということ。

小説に出てくる登場人物には登場人物1人1人のそれぞれの生き方が描かれていて、自分自身の生き方を見直すきっかけにもなると思うんです。

 

人生楽しいことばっかじゃなくて、苦労だって困難だってたくさんある。

でもそれは悪いことじゃなくて、苦労や困難があるからこそ人間的に成長できるんじゃないかって。

そんな人生の教訓にできるようなことがいっぱい本から、特に小説から学べるんじゃないかって思ってます。

 

また余談に入ってしまいますが。

 

私が1番好きな小説は原田マハの「一分間だけ」です。

ペット飼ってる人なら必ず一回は読んで欲しい。

私が獣医になろうって思えたのも、この本に出会えたから。

私にとってはとても大切な小説です。

 

それまではずっと特に夢なんか決まってなくて、英語学びたいから留学できればいいな、また中国の生活戻りたいから中国の大学行って言語学ぼうかな、そんな感じでした。

 

でもこの本に出会って人間と犬の絆を知ってしまってからは、将来は獣医の道一本でした。

 

医学生になってからも、犬は困難な状況に陥った時に唯一人間に助けを求める動物であることなどを知り、より人間と犬の絆の深さを学ぶことができていて、大好きな動物について学べる毎日は本当に幸せで、楽しい。

 

この本に出会えてなかったら、私の今の人生はどうなっていたんだろうって考えるだけで不安になっちゃいます笑

 

 

本って人間の人生まで変えることができるって思うと本当にすごいなって思います。

 

読書のメリットをただひたすら書いただけで、メリットを書いたらデメリットを挙げたいとこですが、ほんとに1つも見当たらない。

 

今後も沢山の本に出会えるといいなって思います。

 

おすすめの本あったら教えてー!!!

 

 

 

p.s.

語彙力の話をしたばっかりですが、ほんとにまだまだ語彙力が足りてなくて、日記の文章が回りくどい気がして、読みづらいだろうなって思ってます。

言語化するのって本当に難しいけど、日記を書くことで言語化の習得もしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嫉妬ってしちゃうよねって話

昨日書いた日記をたくさんの人が読んでくれたみたいで、すごく嬉しいです。

最後まで読んでくれた人ありがとう。

 

今日は「嫉妬」の話をしようと思います。

そもそも「嫉妬」ってなんだろう。

今日もググってみます。

 

①他人が自分より恵まれていたり、優れていることに対して、うらやみねたむこと。

②自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと。

 

①は英語で言うjealousにあたる場面が多く、②はどちらかと言うとenvyに近いのかな。

どちらにしろよくある場面なので想像がつきやすいです。

 

よく「俺は嫉妬しない人と付き合いたい」「私、嫉妬深い男の人は無理」そんな会話耳にします。

 

やっぱり「嫉妬」はネガティブなイメージなんだなってそんな会話を聞くたびに思うんです。

 

マイナスイメージの「嫉妬」。

できればしたくないのに、なんで嫉妬してしまうんでしょうか。

 

例えばインスタ。

美人でスタイルはモデル並み、ブランド物で着飾っている女性。

インスタがない時代ならその女性のことなんて一生知らずに過ごせたはずなのに、今ではSNSを通じて他人の完璧な暮らしを身軽にのぞくことができます。

 

昔と違って今は、自分を他人と比べがちになってしまってるんですね。

SNSのせいで。

 

もちろん他人を見ることで、自分自身の高みへと役立てることができたらそれは素晴らしいことです。

でも、それができる人はかなり少ないのではないかと。

私自身も高みへと役立てるどころか、妬みや憎みに変わり最終的には「嫉妬」になっていること、多々あります。

 

SNSが欠かせない今の時代に嫉妬しないようにするにはどうしたらいいのか。

 

 

本当の自分と向き合うこと

こんなにつらつらと書いてるけど、私もまだ本当の自分と向き合えていません。

自分の好きな面だけを「私」だと思っている私がまだいるんです。

完璧な人間のふりをして、自分の嫌な面が目に入りそうになると、見ないふりや知らないふりをしてしまう。

ほんとに傲慢な人間です。

でも、自分の欠点を自覚し、嫌な面も認めて受け入れてあげることで、ありのままの自分を愛すことができるのではないかと思うんです。

そしたら、他人なんて気にならないんじゃないかって。

好きな自分と嫌いな自分が合わさった本当の自分に向き合った時に初めて、「嫉妬」が自分自身から消え去るのではないかと思います。

 

ずっと①の意味を中心に考えて話してますが、この方法は②にも当てはまります。

 

恋人に嫉妬してしまうのは、本当の自分に向き合えていないから。

「他の人に恋人を取られてしまったら…。」

そんな考えをしてる時点で、自分と向き合うことができていないんです。

 

つまり、今話しているこの方法は言い換えれば自己肯定感を高めようと言うことです。

(自己肯定感が高すぎて空回りしてしまわないように注意が必要ですが。)

 

 

ここまで「嫉妬」はよくないと書いてきたけど、実際、嫉妬してもいいじゃんって思うのが正直なところではあります。

 

②の意味でいくと、それだけ恋人を愛してるってことでしょって。

まあ、こればっかりは考え方の問題です。

 

でも今日は、このSNSで溢れた時代だからこそ本当の自分と向き合うことは大切であるってことを書きたかった。

 

結局ありのままの自分が一番なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「友達」

高校生ぶりの電子日記。
紙に書いて残す方が好きだけど、たくさん書きたいなって思ったので今日は電子にしました。

 

「友達」ってなんだろう。
今日ふと感じました。
普段何気なく使っている「友達」と言う言葉。
意味を問われたらうまく説明できないなって思って、まず意味を調べてみました。

 

「友達」とは
「勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。」

 

私の中では「同等の相手」と言う言葉がどうも引っかかるようで、確かに「友達」って心を許し合える存在と捉えるのが一般的な考えだけど、必ずしも同等な立場でなくても良いのかなって。

 

例えば職場の上司と部下の関係であっても、プライベートで遊ぶほど仲が良ければ、それは「友達」と呼んでも良いのではないかってことです。


でも、これだと「友達」と言う範囲があまりにも広すぎる気がして。

 

じゃあ私は今までどんな人のことを「友達」としてみてきたんだろうって考えた時に、私の中の「友達」の定義は「自分と気が合う人」だったのかなって感じます。

 

私自身の中で、「友達」と「気が合う人」の方程式が1番しっくりくる気がして、その「気が合う人」の中でも年齢は特に意識してなかった感じだと思います。

 

だから「同等の相手」と言う言葉に違和感を覚えたのかな。

 

確かに大学の友達より野球関係で知り合った友達が多い気がして。
それは、きっと「気が合う人」と言う意味で「野球といった一つの趣味が合う人」として私自身捉えているからなのかな。

 

野球で知り合った人は、中学生や高校生の頃出会ってるから、大学で知り合った人よりも長い付き合いなのもあって、やっぱり趣味が合うってだけで話が尽きないから、気楽なんです。


もちろん野球の友達にも約束を守らなかったり、お金や時間にルーズだったりする人もいて、合わない人もいるから野球で知り合った人全員が全員「友達」と呼べる存在ではないんだけれど。

 

ここまで私の「友達」の定義を書いてきたけど、やっぱり「友達」の線引きって難しいなって思います。

 

私の「友達」の定義である「気が合う人」って言うのは、言い換えれば「一緒にいて楽しい人」。
そこに年齢差はないです。

 

でも、今日感じたのは「友達」というのは「一緒にいて楽しい人」ではなく、「離れたら寂しい人」でありたいということ。

 

なぜだか、私の中で「友達」と言う言葉を軽く見ることはできなくて。
みんなはどうかわからないけど、私にとって「友達」は家族のように大切にしたいって思える存在でありたいのです。

 

だから、実際私は「友達」がとっても少ないのかも笑

それでも毎日楽しいからそれでいいのかなって思っちゃいます。


その数少ない「友達」を大切にしたいと思います。

 

地元の友達、大学で出会った友達、野球という共通の趣味で出会った友達、バイトで出会った友達。

 

日々出会いに感謝したいと改めて思いました。

 

出会いは一瞬だけど出会っちゃえば一生だから。