2025年振り返りと2026年の目標
お久しぶりです。戻ってきました。
やっぱり私には手書きの日記の方が合ってるみたいで。
でも今回は少しでも多くの人に読んでほしいなって思ったので、電子日記にしました。
タイトル今回ざっくりですね。笑
2025年ほんとに色々ありました。
多分1番泣いた年でした。
書きたいこと山ほどありますが、主に今日は「条件付き承認」の話をしたいと思います。
条件付き承認
いきなり難しい言葉ですね。
「条件付き承認」とは、「こうであれば受け入れられる」「こうでなければ愛さない」という形で与えられる承認のことを指します。
まあ簡単に言えば、他人から「努力してるあなたは好きだよ」と言われること。
一見、否定していないように聞こえますね。
むしろ応援しているようにも聞こえる。
存在承認
もっとわかりやすくするために、対義語の「存在承認」についても説明します。
「存在承認」とは、行動や成果ではなく「あなたという存在に価値がある」と認めてもらうこと。
これで条件付き承認の理解が深まったと思います。
2025年の私は、この条件付き承認の怖さに気づかずに完全にありのままの自分を捨ててました。
別に恋愛に限らないんだけど、今回は恋愛について話してきますね。
誰もが「好きな人のために変わりたい」って一度は思ったことあると思います。
その気持ち自体は決して悪いものじゃないと思うんです。
でも、気づかないうちに「変わらなきゃ愛されない」にすり替わってしまう瞬間がある。
この瞬間に「条件付き承認」が生まれるんですね。
条件付き承認が生まれた時点で、恋は人を幸せにするものではなくなる。
自分を削る恋って、最初はすっごく優しい顔をしてるんです。
「こっちのメイクにした方がもっと可愛くなれるよ」
「こっちのファッションのほうが似合うと思うよ」
全部正論っぽい。
全部相手のためを思ってるように聞こえる。
だからこそ私も抵抗できませんでした。
最終的には、「愛される=基準を満たすこと」になっていく。
すると人は、不安になる→頑張る→一瞬安心する→また不安になるという無限のループに入っていく。
ここで怖いのは、
苦しさを「愛の証明」だと勘違いしてしまうこと。
じゃあ、安全な恋ってなんだろう。
私が思う安全な恋って
・無理をしていない
・常に評価されている感じがしない
・失敗しても、愛が減らない
・「もっとこうしなきゃ」と追い立てられない
こんなところかな。
安全な恋が何なのかわかってるのに、じゃあ何で自分を削る恋を選んでしまうのか。
それはただ単に
・認められたかった
・選ばれたかった
・見捨てられるのが怖かった
自分に自信がない時ほど、自分を削る恋に入りやすいんですね。
そして1番残酷なのは、削っている最中は、自分が削れていることに気づけないということ。
私って昔からそうだけど、見捨てられるのが怖くて、相手に過剰に合わせてしまう癖があって。
こういうのを「愛着不安」っていうみたいなんですが、自分を削る恋の正体は、愛の深さなんかではなく、不安の強さだということ。
嫌だと思っても言えない。
体が辛くても我慢する。
境界線を引くと、愛が消えてしまう気がする。
この時起きてるのって
恋愛ではなく、ただの自己消耗に過ぎないんだよなって今になって気づきました。
心理学の用語で、感じていること・考えていることと行動がズレていないことを「自己一致」というのですが、自分を削る恋は、この自己一致が壊れていってるのかなって思うんです。
本当は苦しいのに笑う。
嫌なのに大丈夫だという。
不安なのに愛されていると思い込む。
自己一致の崩壊は心の疲弊なのに、どんどん崩壊させてしまう。
前に私、ありのままの自分を愛することは大事だってブログに書きました。
今回の話って結局まだそれができてないってこと。
ありのままの自分を愛すってほんとに難しいんですね。
ありのままの自分を愛すにはどうしたらいいんだろう。
もう一度考えてみます。
私自身考えた末、まず大前提として
ありのままの自分を好きになる必要はないんじゃないかなって。
ただ「自己受容」が足りないんじゃないかって。
良い部分も未熟な部分も、「今はこうなんだな」と事実として扱う。
自己愛の回復って自己受容から始まるんじゃないかなってすごく思うんです。
これを大前提にした上で、
①自分を「改善対象」としてみるのをやめる
たぶん私って無意識に
まだ足りないな、直さなきゃな、もっとちゃんとしなきゃなって思ってる気がして。
これって条件付き承認の中にいる人の思考癖なのかも。
だからまずは、自分自身に向ける言葉を変えること。
「何でこんな自分なんだろう」ではなくて、
「今の私はこういう状態なんだな」
って評価をやめて観察に切り替える。
②感情を正解や不正解で扱わない
ありのままの自分を愛せない人って、感情にも条件をつけてしまうと思うんです。
・不安になる私はダメ
・嫉妬する私は未熟
・弱い私は愛されない
でも感情は人格じゃなくて反応でしょ?って話。
「私は不安だ」ではなく、「不安という感情が今、ある」と捉えるように脱同一化を図ること。
感情を敵にしないだけで、きっと心はとっても軽くなる気がする。
③ありのままの自分を「守る」選択をする
自己愛って感情じゃなくて行動なんです。
だから、
・無理な人間関係から距離をとる
・不安を煽る人の言葉を真に受けない
・嫌なことにNOという
これができるたびに脳が学習すると思うんです。
「私は守られる存在なんだ」と。
この①から③ができたら、もっと今より楽しく過ごせる気がして。
だから今年の目標はこの3つにします。
ありのままの自分を愛すって、決して自分を甘やかすことではないということ。
つい最近占いに行ったのですが、占いでも「もっと自分を大切にしてください」と言われちゃいました笑
ほんとに私って大好きな人には尽くしてしまうんです。
家族、友達、彼氏。
大好きな人のためなら何でも尽くせちゃうタイプ。
今年は去年よりも自分に尽くせれば良いかなって思います。
今年は自分を大事にできる環境を作ってくれる恋人に出会いたいし、そんな家族や友達といる時間を大事にしたい。
また長々と書いてしまいましたね。
私の悪い癖です。
最後まで読んでくれた人ありがとう。
みんなも自分を大事にする年にしてください。
読書
投稿頻度少なめで、前回からだいぶ間空いちゃったけど今日も長々と書いていきます。
今日は読書について。
漢字を見てわかる通り読書は書物を読むってこと。
「読書の秋」っていうのもあって、最近は暇な時間に読書してます。
ちょっと興味本位で調べてみたことですが、江戸時代から明治前期までの読書スタイルは、文章を声に出して読む音読が一般的だったそうで、家族やグループといった集団で読むのが特徴的だったそう。
音読が中心だった日本人の読書という行為を「黙読」に変化させたのは明治以降らしいです。
ここまでが余談。
読書、好きです。
というのも、読書って効率的に情報収集するのに最もな方法だと思うんです。
今はネットの時代だから、調べたらすぐに出てくるけど、知識が不十分でない人でも書き込めちゃう。
でもネットとは違って、本は沢山の人の目を通した上で出版されているから、必ずしも間違ったことが書かれているわけがないとは言えないけど、ある程度は信頼できる情報源になるのではないかと思います。
他にも読書は、語彙力向上にも効果的。
これを実感したのは中学3年生の時。
本当に中学時代ずっと国語が苦手で、与えられた問題文を読むというよりも、先に問いを読んでからその問いの答えを問題文から探し出すといった感じで、テストや模試などを受けていました。
「このような問いはきっとこんな答えだろう」って自分自身で勝手にパターン化して解いていたんだなって今になって思います。
これを繰り返してれば、それもそのはずで国語への苦手意識が高まるばかりで。
中学3年生で受験を意識し始め、このままじゃダメだと思って、まず語彙力を高めようと思ったんです。
塾への移動の時間は読書して、本の中でわからなかったり、疑問に思った言葉は付箋して後から意味を調べてノートに書き出す。
語彙ノートが10冊ぐらいになった頃には、国語が本当にびっくりするほど得意になってて好きになってました。
読書ってほんとにメリットしかない。
ここまでは随筆の話ばかりだったけど、もちろん小説からも学べることはすっごく多くて。
その1つとして、生き方が学べるということ。
小説に出てくる登場人物には登場人物1人1人のそれぞれの生き方が描かれていて、自分自身の生き方を見直すきっかけにもなると思うんです。
人生楽しいことばっかじゃなくて、苦労だって困難だってたくさんある。
でもそれは悪いことじゃなくて、苦労や困難があるからこそ人間的に成長できるんじゃないかって。
そんな人生の教訓にできるようなことがいっぱい本から、特に小説から学べるんじゃないかって思ってます。
また余談に入ってしまいますが。
私が1番好きな小説は原田マハの「一分間だけ」です。
ペット飼ってる人なら必ず一回は読んで欲しい。
私が獣医になろうって思えたのも、この本に出会えたから。
私にとってはとても大切な小説です。
それまではずっと特に夢なんか決まってなくて、英語学びたいから留学できればいいな、また中国の生活戻りたいから中国の大学行って言語学ぼうかな、そんな感じでした。
でもこの本に出会って人間と犬の絆を知ってしまってからは、将来は獣医の道一本でした。
獣医学生になってからも、犬は困難な状況に陥った時に唯一人間に助けを求める動物であることなどを知り、より人間と犬の絆の深さを学ぶことができていて、大好きな動物について学べる毎日は本当に幸せで、楽しい。
この本に出会えてなかったら、私の今の人生はどうなっていたんだろうって考えるだけで不安になっちゃいます笑
本って人間の人生まで変えることができるって思うと本当にすごいなって思います。
読書のメリットをただひたすら書いただけで、メリットを書いたらデメリットを挙げたいとこですが、ほんとに1つも見当たらない。
今後も沢山の本に出会えるといいなって思います。
おすすめの本あったら教えてー!!!
p.s.
語彙力の話をしたばっかりですが、ほんとにまだまだ語彙力が足りてなくて、日記の文章が回りくどい気がして、読みづらいだろうなって思ってます。
言語化するのって本当に難しいけど、日記を書くことで言語化の習得もしていきます。
嫉妬ってしちゃうよねって話
昨日書いた日記をたくさんの人が読んでくれたみたいで、すごく嬉しいです。
最後まで読んでくれた人ありがとう。
今日は「嫉妬」の話をしようと思います。
そもそも「嫉妬」ってなんだろう。
今日もググってみます。
①他人が自分より恵まれていたり、優れていることに対して、うらやみねたむこと。
②自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと。
①は英語で言うjealousにあたる場面が多く、②はどちらかと言うとenvyに近いのかな。
どちらにしろよくある場面なので想像がつきやすいです。
よく「俺は嫉妬しない人と付き合いたい」「私、嫉妬深い男の人は無理」そんな会話耳にします。
やっぱり「嫉妬」はネガティブなイメージなんだなってそんな会話を聞くたびに思うんです。
マイナスイメージの「嫉妬」。
できればしたくないのに、なんで嫉妬してしまうんでしょうか。
例えばインスタ。
美人でスタイルはモデル並み、ブランド物で着飾っている女性。
インスタがない時代ならその女性のことなんて一生知らずに過ごせたはずなのに、今ではSNSを通じて他人の完璧な暮らしを身軽にのぞくことができます。
昔と違って今は、自分を他人と比べがちになってしまってるんですね。
SNSのせいで。
もちろん他人を見ることで、自分自身の高みへと役立てることができたらそれは素晴らしいことです。
でも、それができる人はかなり少ないのではないかと。
私自身も高みへと役立てるどころか、妬みや憎みに変わり最終的には「嫉妬」になっていること、多々あります。
SNSが欠かせない今の時代に嫉妬しないようにするにはどうしたらいいのか。
本当の自分と向き合うこと
こんなにつらつらと書いてるけど、私もまだ本当の自分と向き合えていません。
自分の好きな面だけを「私」だと思っている私がまだいるんです。
完璧な人間のふりをして、自分の嫌な面が目に入りそうになると、見ないふりや知らないふりをしてしまう。
ほんとに傲慢な人間です。
でも、自分の欠点を自覚し、嫌な面も認めて受け入れてあげることで、ありのままの自分を愛すことができるのではないかと思うんです。
そしたら、他人なんて気にならないんじゃないかって。
好きな自分と嫌いな自分が合わさった本当の自分に向き合った時に初めて、「嫉妬」が自分自身から消え去るのではないかと思います。
ずっと①の意味を中心に考えて話してますが、この方法は②にも当てはまります。
恋人に嫉妬してしまうのは、本当の自分に向き合えていないから。
「他の人に恋人を取られてしまったら…。」
そんな考えをしてる時点で、自分と向き合うことができていないんです。
つまり、今話しているこの方法は言い換えれば自己肯定感を高めようと言うことです。
(自己肯定感が高すぎて空回りしてしまわないように注意が必要ですが。)
ここまで「嫉妬」はよくないと書いてきたけど、実際、嫉妬してもいいじゃんって思うのが正直なところではあります。
②の意味でいくと、それだけ恋人を愛してるってことでしょって。
まあ、こればっかりは考え方の問題です。
でも今日は、このSNSで溢れた時代だからこそ本当の自分と向き合うことは大切であるってことを書きたかった。
結局ありのままの自分が一番なんです。
「友達」
高校生ぶりの電子日記。
紙に書いて残す方が好きだけど、たくさん書きたいなって思ったので今日は電子にしました。
「友達」ってなんだろう。
今日ふと感じました。
普段何気なく使っている「友達」と言う言葉。
意味を問われたらうまく説明できないなって思って、まず意味を調べてみました。
「友達」とは
「勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。」
私の中では「同等の相手」と言う言葉がどうも引っかかるようで、確かに「友達」って心を許し合える存在と捉えるのが一般的な考えだけど、必ずしも同等な立場でなくても良いのかなって。
例えば職場の上司と部下の関係であっても、プライベートで遊ぶほど仲が良ければ、それは「友達」と呼んでも良いのではないかってことです。
でも、これだと「友達」と言う範囲があまりにも広すぎる気がして。
じゃあ私は今までどんな人のことを「友達」としてみてきたんだろうって考えた時に、私の中の「友達」の定義は「自分と気が合う人」だったのかなって感じます。
私自身の中で、「友達」と「気が合う人」の方程式が1番しっくりくる気がして、その「気が合う人」の中でも年齢は特に意識してなかった感じだと思います。
だから「同等の相手」と言う言葉に違和感を覚えたのかな。
確かに大学の友達より野球関係で知り合った友達が多い気がして。
それは、きっと「気が合う人」と言う意味で「野球といった一つの趣味が合う人」として私自身捉えているからなのかな。
野球で知り合った人は、中学生や高校生の頃出会ってるから、大学で知り合った人よりも長い付き合いなのもあって、やっぱり趣味が合うってだけで話が尽きないから、気楽なんです。
もちろん野球の友達にも約束を守らなかったり、お金や時間にルーズだったりする人もいて、合わない人もいるから野球で知り合った人全員が全員「友達」と呼べる存在ではないんだけれど。
ここまで私の「友達」の定義を書いてきたけど、やっぱり「友達」の線引きって難しいなって思います。
私の「友達」の定義である「気が合う人」って言うのは、言い換えれば「一緒にいて楽しい人」。
そこに年齢差はないです。
でも、今日感じたのは「友達」というのは「一緒にいて楽しい人」ではなく、「離れたら寂しい人」でありたいということ。
なぜだか、私の中で「友達」と言う言葉を軽く見ることはできなくて。
みんなはどうかわからないけど、私にとって「友達」は家族のように大切にしたいって思える存在でありたいのです。
だから、実際私は「友達」がとっても少ないのかも笑
それでも毎日楽しいからそれでいいのかなって思っちゃいます。
その数少ない「友達」を大切にしたいと思います。
地元の友達、大学で出会った友達、野球という共通の趣味で出会った友達、バイトで出会った友達。
日々出会いに感謝したいと改めて思いました。
出会いは一瞬だけど出会っちゃえば一生だから。